各界からのコメント


奈良美智(美術家)

<シュヴァンクマイエル短篇作品について>
脳裏に潜む記憶の断片が、真っ暗な闇の中から歯車時計に乗って引き出されヴィジュアライズされていく。パッチワークされた表層から始まる不安な心の旅は、 好むと好まざるとにかかわらずフィルムが終わった後も静かに続き、僕らは予期せぬところで自身の深層からのレポートを受け取ることになるのだ。
(2002年『ジャバウォッキー』その他の短篇&『ドン・ファン』その他の短篇、DVD発売フライヤーより転載)

いとうせいこう(作家)

<シュヴァンクマイエル短篇作品について> 
悪夢という言葉を人は悪しき文学趣味で使いたがる。だが、それは本来シュヴァンクマイエルのフィルムのようなものにだけ当てはまる。悪夢は時にユーモラスで、慣れ親しんだものが異貌をあらわす瞬間の連続なのだ。
(2002年『ジャバウォッキー』その他の短篇&『ドン・ファン』その他の短篇、DVD発売フライヤーより転載)

吉野朔実(マンガ家)

<『ジャバウォッキー』について>
立ち枯れた森の奥深く、古いお城の開かずの間、隠し扉の裏側の、主を失くした子供部屋、埃にまみれた宝物、宝石のようなガラクタたち。眠らずに見る、異国の夢。
(2001年「タッチ&イマジネーション(短篇集)」フライヤーより転載)

佐野史郎(俳優)

<『アリス』『ジャバウォッキー』について>
小学生の娘は『アリス』が大好きで『ジャバウォッキー』も大喜びでした。ヤン・シュヴァンクマイエルのシュルレアリスム映像は子供の心も捕らえて離さないようです。
あ、そういや僕も大人であることを忘れてました。
(2001年「タッチ&イマジネーション(短篇集)」フライヤーより転載)

松本俊夫(映像作家)

<『アリス』について> 
このチェコの作家はファシズムやスターリニズムから受けた重苦しい被抑圧体験を、閉塞した迷宮空間におけるカフカ的な不条理の脅迫観念として隠喩的に描い てきた。その恐怖感と毒気をはらんだブラックユーモアは鮮烈をきわめている。

(中略)『アリス』はシュヴァンクマイエルの最初の長篇アニメーションで、彼 お得意の人形アニメと実写(しばしばコマ撮り)を複合した作品だが、ここでは毒気のある痛烈な風刺を抑えて、キャロルを基にシュルレアリスムの奔放な想像 力をはばたかせ、少女アリスの夢と幻想を自分の関心に引き寄せて映像化しきっている。 
(『ファンタスティック・アニメコレクション』パンフレットより抜粋)

滝本誠(評論家)

<『アリス』について> 
もっとも知られた、というか世界の多くがイメージするディズニー版の洗練とは異なり、チェコの皮肉屋アニメーターが作り上げた『アリス』は、ゴツゴツとし たいかがわしい非洗練が魅力である。悪趣味!? もちろん。誰だと思ってるんだ。シュヴァンクマイエルだぜ。ラストはブラックの極み。

(中略)シュヴァンクマイエルの『アリス』は1980年代に達成され たアリス映画でも、群を抜いて異質で、その悪趣味は違和感すら与えるものだろう。入れ歯靴下虫? これも美しい!? あたりまえだ、シュヴァンクマイエルだぜ。(『ファンタスティック・アニメコレクション』パンフレットより抜粋)

 

嶽本野ばら(作家・エッセイスト)

<『オテサーネク』について> 
多くの健全な人々はこの作品をブラックユーモア溢れるファンタジー、もしくは異色のホラーとして愉しむのでせう。しかし僕を含め、一部の限られた人達にとってこの寓意的な作品世界は認めたくなけれども現実なのです。
(2001年『オテサーネク』フライヤーより転載)

原マスミ(ミュージシャン)

<『オテサーネク』について>
畑ひとつ分のキャ別を平らげたところで物語を切り上げたのは、彼の食事を中断させぬ故。耳毛一本とて、その胃袋から帰還させぬ故。果たせるかな、キャ別には消化を助ける酵素がたっぷり含まれています。早晩ヒーローは、この世の何もかもを喰い尽くすだろう。オテサーネクこそ、かなしい連鎖の中にいる者たち自らが創造した、救いのアポトーシスである。
(2001年『オテサーネク』フライヤーより転載)

 

知久寿焼(弾き語り歌手/パスカルズ)

<『オテサーネク』について>
ヒトのつくった、この一見安全な世の中はきゅうくつだ。きゅうくつなのでちょっとはみだしてみると「狂ッテル」と言われてしまう。ああ、きゅーくつ。でも きゅうくつならば、ちょっとはみだしたくなるのも人情とゆうもんです。だって、はみだす部分ていうのは、かくしてもかくしきれない、本来もともとあるものなのだから。映画「オテサーネク」は「狂ッテル」。ちゃんと狂ってる。
(2001年『オテサーネク』フライヤーより転載)

 

戸川純(女優・ミュージシャン)

<『オテサーネク』について>

“出てくる人間のナチュラルさ(俳優の、ギミックを避けるような演技)”と、クレイ・ムービーに代表されるコマ撮り処理に拠るアナログ特有の“観る側に、 ここちよい不快感を与える、オテサーネクという名の木株という物のメチャクチャ不自然な感じ”とのコントラストと、その見事な融合が面白い。CGに慣れてしまった現代に、この映像と民話が本来持つシュールな展開が新鮮だ。
(2001年『オテサーネク』フライヤーより転載)

 

長島有里枝(写真家)

<『オテサーネク』について>
怖い夢を見たり、天井の木目がお化けややまんばに見えたときみたいに、夢とも現実ともつかない不思議な気分になる。昨今のハリウッド映画のようなスゴさよりずっと観る側の想像力と感受性を刺激するスゴさを感じた。随所に出てくる食べ物の映像がグロテスクで大好き。
(2001年『オテサーネク』フライヤーより転載)

 

 

ケラリーノ・サンドロヴィッチ(劇作家)

<『サヴァイヴィング ライフ』について>
本作は実写と写真をコラージュし、そのパラノイアックな世界に「相変わらずだなあ」と幸せな気持ちになりました。

(中略)夢という題材は難しいんです。本 作のうまい点は、監督が夢独特の“制度”を意識的に入れているところ。例えば空を飛ぶ夢にしても「こうすると落っこちちゃう」とか、夢には夢なりの「決まり事」があるでしょう? ただのメチャクチャではなく、本作は自由でありながら、その規範に基づいて、きっちり世界観を作っているんです。ラストがホロッとするのも意外な驚きでした。

(『週刊朝日』2011.09.09号 記事より抜粋(聞き手・中村千晶)*朝日新聞社の許諾を得て転載しております。朝日新聞社に無断で転載することを禁じます。)


伊藤有壱(アニメーションディレクター)

<『サヴァイヴィング ライフ』について>
 他人の悪夢に迷い込んだときの生理的嫌悪感!!!
 その鮮度が落ちない奇跡の監督がヤン・シュヴァンクマイエルだ。
 アニメーション作家は多かれ少なかれ自分のアニメーションならではの表現に心酔しているもの。
しかしシュヴァンクマイエルは表現自体への愛情はかけらも無く、作品のため徹底的に「アニメーション」を使い尽くす。一コマずつの繊細な(アニメーション的には結構 雑とも言えるが)動かしに込められた物は何なのだろう? ライブアクションとカットアウトアニメーションのシャッフルが産み出す独特な旋律は、観客がそれを補完しようとする生理感覚を利用してへとへとに疲れさせ、脳内物質を絞り出させ、監督の独白世界の恍惚へと強制連行してゆく。
 『サヴァイヴィング ライフ』は本人が冒頭に「精神分析コメディー」と自白しているが、醜い壮年夫婦を通して、いくつかの「愛」の行方に目をそらす事ができなくなり、ラストシーン、今までの彼の作品に無かった「感動」にたどり着けたことに幸福を感じてしまった。
 ハリウッドなら、「トム・ハンクス主演でドリームワークスが最新VFXを駆使した夢の世界」的な展開で映画化可能かもしれない。だがそうじゃない! 映画の可能性の一つがアニメーションだと確かに感じさせてくれるシュヴァンクマイエル監督の感性の暴挙にこそ映像の未来も感じるのだ。
悔しいけど。

(2014年最新コメント)